身持ちが堅く、人前が苦手で奥手な性格・・・常に生きづらさを胸に秘めて生きていた。
そんな紫式部が今年の大河ドラマの主人公と聞き「紫式部日記」を手に取った。
人から聞いた話や書物から得た知識を基に想像力で紡ぎ上げた「源氏物語」
父親の藤原為時は文章博士。中流役人であり学者だった。家には古今東西の書籍、漢書で満ちていた。そんな家庭環境の中で、紫式部は様々な本や父親の話に触れるうちに徒然に短編小説程度は書いていただろう。
やがて、かなり年の離れた夫に嫁ぎ一女をもうける。しかし数年で夫は病死。世をはかなみ乳飲み子をかかえ喪に服していた彼女は、細々と新しい話を書き始める。最初から長編の構想はなかった。しかしその話は人づてに評判を呼び周囲で話題になる。「源氏物語」はこうして生まれた。
好奇の目、やっかみに疲れ・・・生々しく心境が綴られる
都の生活、行事、四季の移ろいの描写の美しさ、宮中で暮らす人々の心理の裏と表の細やかな描写、登場人物の書き分けの巧みさ。
才能と言ってしまえばそれまでだが、引っ込み思案であるが心の芯をしっかり持っていた人だったのだろう。
この物語の人間観察の鋭さと表現力に当時の読者も夢中になった。噂は天皇の耳にも届き、中宮彰子(藤原道長の長女)の女房兼家庭教師役として抜擢される。
当時の女性なら誰でも憧れる華々しい引き立てであったが、当の本人はこの宮仕えが苦痛で仕方なかったようだ。かと言って親づてに下った時の権力者道長の要請を辞退することもできない。人目を嫌い周囲の好奇の目ややっかみに触れることに疲れ、たびたび実家に引き返していた。
この日記にも生々しくその心境が綴られている。清少納言のように才女であることを周囲に誇る態度は疎ましく、和泉式部のように容姿と歌の才能に恵まれていながら奔放な恋愛遍歴を重ねることも感心しない。虚弱だったため遠方に出かけた記録も残っていない。
とすれば「須磨」や「明石」「澪標(住吉)」の段は人から聞いた話や書物から得た知識だけで書き上げたことになる。
大風と雷雨、荒れ狂う海。恐怖のあまり竜神の祟りだとメソメソと死を覚悟する光源氏、それを明石から救出にやってくる明石の入道。このような手に汗を握るスペクタクルなシーンを現地の取材もせず想像力で書き上げるなんてとんでも無い才能である。
紫式部は源氏物語全54帖を3~4年の期間に書き上げている。晩年は実家でひっそり暮らし、30歳半ばで寿命を終えたとされている。常に生きづらさを胸に秘めて生きていた紫式部本人は、まさか令和の時代にまでこの物語が語り継がれるとは思いもしなかっただろう。