以前ノーベル文学賞受賞作家の故大江健三郎氏と、講演会場のロビーでわずかな時間であったが直接会話する機会があった。緊張のあまり身の程知らずの不躾な質問を色々ぶつけてしまった。しかし大江さんは非常に真面目な態度で私の質問ひとつひとつに丁寧に答えてくれた。
その姿勢に感服したが、あれほどの小説世界を生み出す才能のある人にしては朴訥とした口調で決して話し上手では無いという印象だった。
それに比して最近のタレント、政治家、会社員は非常に雄弁であり能弁。
入社2,3年しか経っていない若手社員が自分の立場、主張をしっかり上司にアピールしている姿を見て感心することもある。しかし、当の本人に報告書、時節の挨拶文を書かせてみると先程の自信にあふれた勇姿のかけらも無くひどくがっかりした。確かに彼らの世代はメールやSNSは達者であるが会話の延長のようなもので、正式な文章の作成は苦手なようだ。
話が上手いことと、書くのが上手いことは別物。その対応のために生成AIを乱用するのは本末転倒だろう。
特に日本語は書き言葉、漢字そのものに含まれている意味も多数あり、文字にして初めてその意味を知る言葉が多い。「ゲシ」では無く「夏至」(夏がここに至る)、「ユーウツ」では無く「憂鬱」(憂いかつ鬱陶しい)。アルファベットのような記号の組み合わせでコミュニケーションが成り立つ西欧文化とは事情が随分異なる。
更に言えば話し上手と会話上手も違う。いい耳を持つことはよくしゃべる口を持つことより数段難しい。発信力はあっても聞き上手な人が少なくなったと思っているのは私だけだろうか。。